2019年4月20日土曜日

そのさんびゃくごじゅうきゅう

また随分とご無沙汰してしまいました。

姪っ子の家で暮らしている、亀の「すーさん」がお亡くなりになってしまいました。

人間以外の生き物の「死」は、『亡くなる』ではなく、『死んだ』と表現するのが本来の言葉遣いなのですが、なんだかアホらしい分け方なので、ワシは人間以外でも「亡くなる」と言っています。

知らせは出先で昼ごはんを食べている時に知りました。
ごはんを食べながら、ポロポロと涙が流れてきました。少し恥ずかしかったです。

「すーさん」という名前はワシが名付けました。「鈴木」が本名です。ファミリーキャットこももさんが来た時、名前に「勅使河原」という名前を提案しましたが、即刻却下されました。

すーさんは、癒しでした。狭い水槽の中で、バタバタともがき、時に脱走したり。
夏場は大きなタライに移されましたが、タライの縁に手足をかけて、脱走。みんなで探すと、テレビ台の裏側で埃だらけになったりしていました。

歩くのも割と早くて、その歩き姿はかっこよかったです。

人間もそれ以外の生き物もそうなのですが、ワシは「死」に直面すると、何かひとつ物語が終わったような感覚になります。ぱーっとエンドロールが流れます。そのエンドロールは決してハッピーエンドなんかじゃなく、とても淋しいものです。

一番気に入ってる写真。

微妙にこもも氏とツーショット。






すーさんは、楽しい生涯を送れたのかなぁ。

すーさん、ありがとう。また会おう。さよならなんて言わない。あの世できみに出会えたら、おっさん、嬉しいな。

今日はずっと泣いてる。

合掌



2019年3月2日土曜日

そのさんびゃくごじゅうはち

徐々に春めいてきましたね。ワシはこの冬自宅で「暖房器具は一切使わない」という目標を掲げてたんですが、遂にこれを達成しようとしてます。

うちにある、エアコン、ホットカーペット全てを使用しませんでした。

これは単にワシの頑張りによる達成ではなく、姉から貰ったどてら、サンタさんに貰ったニトリさんとこのNウォームのラグ、そして予報されていた通りのある程度の暖冬。

これらが重なり達成することが出来そうです。今もう昼間は春の装いでお出掛けしてます。

「1月と2月が勝負」

と思っていたので、3月になった今、もはや勝ったも同然です。

そういえば、もうあれは9年前になりますが、その9年前の2月のとある日、2月なのに凄く暖かい日があって、当時はどこへ行くにもクロスバイクで移動してたんですが、その日はいつもははめている手袋もなしで、上着も薄いブルゾン1枚で十分の日でした。

あまりにも暖かい2月の日だったので、よく覚えています。そしてその日ワシは当時の恋人と淀川で水見をし、スケッチブックに絵を描いて、木の枝にそれを括り付けて、旗にして岸に立て、そして初めてtobaccojuiceの音楽に触れた日となりました。

淀川は暖かい日が差し、水は太陽に照らされキラキラし、お惣菜屋さんで買ったカキフライはそこそこのお味で、ビールはやはりいつどこで飲んでも美味しかったです。

tobaccojuiceの音楽を初めて聴いた日でしたが、今日はTwitterでそのtobaccojuiceのギタリストのaoimonakaさんに、「秋にはしばらく遊びましょ」と言い(秋に京都へお越しになるので)、「いいねぇ」と返事下さったので「よーし、じゃああそこの居酒屋さんへ連れて行こう」とか、「寺社仏閣に興味はあるのだろうか…。」なんて考えてました。

なぜだかもなかさんには定期的に会いたくてなります。一緒にライブしたの、もう1年も前です。

話飛んで、うちの冷蔵庫はビジネスホテルにあるような、小型の冷蔵庫なのですが、ちょっときちんとした冷凍庫付きの大きめの冷蔵庫が必要になったので、蛍光灯を買うついでに電気屋さんで見てきました。

うーん、高い…のか、安い…のか、分からない値段でした。でもはっきり言えるのは、たかが2万5千円の冷蔵庫が買えない大人になってしまったのだな、ということです。情けない…。

ちなみに、その小型の冷蔵庫は、計3台あります。1台は元々部屋の備え付けのもの、2台目は、その備え付けの物が壊れてしまったので、友達が譲ってくれた物、3台目はその2台目も壊れてしまったので買った物です。

1台目は備え付けの物だということなので、元にあった場所で今はゴミ袋とか洗剤を入れてます。2台目は残念ながら邪魔なのでバルコニーにあります。捨てるのにお金がかかるので…。

また話飛んで。

冬場「粕汁」を作りたい衝動に毎年かられます。でも材料費なんかを考えるとなかなか作ることができない年もあって、今年も作りませんでした。酒粕って、198円もするもんやったっけ?

「食べたい」ということよりも「作りたい」という気持ちの方が先行しています。季節の食べ物なんかは、どれもそうです。

子供の頃、うちは貧乏でした。でも母親は姉弟3人の為に、懸命に料理を頑張ってくれていたと感じています。

正直、そんなに料理は上手ではなかったと思います。本人もそれを認めていたのか、ワシが20歳頃の時、「餃子ってどう焼いたらいいん?」と聞かれたので、若干18歳で居酒屋の料理長に昇りつめてしまったお料理上手なワシは教えたのですが、同時に「今までどうやって焼いててん…。」と思ったものでした。

でも、そんな母親が作ってくれたいくつもの料理の中で、今でも食べたいなぁと思うものが沢山あって、粕汁もそんな中の一品です。

直接母親の料理を教えてもらったことはないので、ワシが作ったところで同じ味にはならないし、「作る」という行為に関しては、同じものを作ろうとは思ってません。

でもそれを食べてきて、今ワシが粕汁を作りたいなぁと思うことが不思議です。

母親はとにかくなんでも大量に作る人でした。粕汁はもちろん、カレー、おでん、巻き寿司、からあげ、なんでもです。まぁその方が材料に無駄がなくて楽だったんでしょうね。合理的だと思います。

1日のどれか1食を単に作るということは、簡単なことです。でもそれはお金の無駄になります。ごはんを作る人は、材料を上手く使い回す為に「今日はこれを作るからアレを買って、アレが余ったらそれを使って別の物を作ろう」と、やりくりします。それは難しいことですが、同時にやり甲斐があったりもします。チラシとにらめっこするのもまた楽しいです。

冷蔵庫で野菜がしょんぼりしてしまっていたら、ワシもしょんぼりしてしまいます。

母親はもういないけど、何かワシが作りたいと思った時は、母親の料理を食べたいと思ってしまいます。そしてそれを、家族みんなで実家で食べたいです。

実家に帰りたいです。もう二度と叶わないけど。

2019年2月15日金曜日

そのさんびゃくごじゅうなな

姉ちゃんに子供ができたって知った時、ワシはめちゃくちゃ嬉しくて、そして
めちゃくちゃ舞い上がってしまいました。

どれくらい舞い上がってたかというと、出産予定月の5ヶ月前にワシがディズニーランドへ行った時に、被るとグーフィーになれるモコモコした帽子を買い、それが新生児どころか1歳児も被るには早い大きさの帽子を買ったことです。

あと、産まれた時に「よし、この子が小学生になる時、ランドセルはワシが買おう」と決めたことです。

無事に子供は産まれた訳ですが、その時にもう一つ抱いた気持ちがあります。

「あれ?自分の子供はいらないくらいかわいいではないか」

という気持ち。初めに産まれたのは女の子でした。ワシは17歳で「叔父」になりました。

その後、更に男の子が二人生まれました。


ワシ自身にも叔父が一人います。ワシがまだ幼稚園に通う前、家庭の事情でワシは姉と兄、母から離れ、叔父とお婆ちゃんと3人で暮らしてました。

叔父は厳しい人で、よく叱られました。お婆ちゃんは比較的ワシには甘かったです。
幼稚園へ上がる頃に、また姉兄と母と暮らしはじめました。

ワシが子供の頃は、夏休みや冬休みなどの長期休みの際は、姉兄と3人揃ってずっと叔父と婆ちゃんの家で過ごしました。

婆ちゃんはもう亡くなってしまいましたが、叔父には今もとてもお世話になってます。今日もうちへイタリア旅行のお土産を持って来てくれました。頭が上がりません。

叔父は厳しい人と綴りましたが、色んな事を教えてくれたり、色んな所へ連れて行ってくれました。昨年は2回も旅行へ連れていってくれました。

なもんで、ワシにはとても良い「叔父の見本」が身近に居ます。

ワシの母親が亡くなってから、ワシは姉ちゃんの家で実に5年も厄介になりました。もちろんそこにはワシの姪っ子と甥っ子が3人居ました。

まだ3人とも小さかったです。その時は丁度ワシはバンドの活動が活発で、月に何回かはステージに上がっていました。

3人はいつもワシのバンドのライブを観に来てくれました。ワシの友達で、まだこの子たちのことを覚えている人たちは沢山いると思います。

3人は、もう随分大きくなりました。「大きくなった」というより、上の二人はもう成人しました。3番目の子も、来年には高校卒業です。

ここまで、早かったなぁと思います。

ワシは、自分の叔父みたいに、色んなことを教えてあげたり、連れて行ったりすることは出来ませんでした。なんだか、情けないです。良いお手本がいるのに。

それでも、ワシはこの子たちが本当に大切な存在だとずっと想っています。なにかの力になれることは少ないですが、いつもこの子たちのことを想っています。

みんな、ワシたちの音楽をどんな気持ちで観てたのか、今でも考えますが、それはちょっとどうでもいいとも思うかな。


こんなことを自分で言うのは間違ってると思うし、情けないとは思いますが、ワシは凄く苦労して生きてます。それは今も。

うちは凄く貧乏で、そのせいでやりたい事ができなかったり、欲しい物を手にする事が出来なかったり。

母は、貧乏でもワシたちを凄く思いやって育ててくれました。それは感謝ということばだけでは表せない程、大変な苦労だったと思います。でも、同時にそれはワシ自身の苦労だと、ワシは思ってしまうのです。あ、母親のせいとは思いません。

顕著なのは「野球」が出来なかった事。本当にワシは野球がやりたかったのです。
「生まれ変わったらやりたい事」と問われると、迷わず野球です。

そんな気持ちを自分自身で抱いてしまうことは、ダメだとは思っています。
でも、だからこそ思うことは、姉ちゃんの子供たちにはワシみたいになってほしくないと思っています。

ワシはもう随分前から、生きるということに苦労とか辛さを感じていて、毎日毎日がとてもしんどいのです。

自分を見る周りの目とか、社会の感覚と自分の考えている感覚のズレが物凄くしんどく、違和感が凄くあります。それは、バンド活動を積極的にやっている時にも、何人かのメンバーに当時から違和感を実は抱いていて「そうじゃないねん」と考えてしまうことが度々あったもんです。実は話を合わせていました。


だから、姉ちゃんの子たちには、ワシみたいになって欲しくないと、ずっと思ってます。
子供たちが「しんどい」とか「辛い」とか思ってしまう時、どうにかワシは力になってあげたいと考えています。金銭的な援助は出来ないけど、心をどうにかして助けてあげたいです。こんな叔父でも。


自分の決断が間違ってしまうことは多々あるし、ふんばらないといけない事もあるとは思うんですけど、反対に、その間違った決断を「間違ってる」とする決断が必要な時もあると思います。筋を通すことは大切だけど、そのせいで自分を壊してしまっては元も子もないです。

姪っ子、甥っ子たちに大切にして欲しいことは、笑っていてほしいということです。

辛い時は、迷わずに、逃げろ。逃げた先がドン突きで、壁があったとしたら、全力で引き返せ。

壁を乗り越えることが全てじゃない。


ワシは「失敗はない」という考えを持っています。「失敗した」と思っていることは「最低限の成功」と考えています。

ワシは、君たちの決断を応援します。どうしても自分で何も出来ないと考えてしまうならば、その時は、一緒に、バンドやろうぜ。