2015年8月29日土曜日

そのにひゃくろくじゅうきゅう

2015年8月26日、午前11時52分、祖母が他界致しましたことをご報告させて頂きます。

御心配して下さった方々、どうも有り難う御座いました。

通夜、告別式、共に滞りなく家族葬にて終了致しました。
まるで眠っているかのような優しい表情で亡くなりました。


私は、自らの母の通夜、告別式において喪主として参列しながらも、右も左も分からず、大嫌いなスーツ着用を拒み、通夜においては軍パンで参列し、告別式は母の友の説得に応じてスーツを着用しながらも、最期の別れの言葉を「ロックンロール!」と叫び、母の遺言であったザ・ソロシップスの音楽を会場にて鳴らし、我儘だらけで通夜と告別式を締めました。

今回は祖母の他界ということで、喪主を叔父が務め、叔父の傍らに居させて頂き、様々な経験をさせて頂きました。

母の時はあれはあれで良かったと今でも信じていますが、今回の経験は貴重なものとなりました。焼香時の立礼もさせて頂きました。


私は幼少期に親元を離れ、幼稚園に入園するまで祖母と叔父に育てて頂きました。大らかな祖母と厳しい叔父の元で、今現在の自分自身の心の芯を育んでいったと思っています。

幼稚園、小学校の長期休暇では、いつも祖母の家で世話になり、三人兄弟の末っ子の私は特におばあちゃんっ子でした。

中学、高校と、それはいつしか途絶え始めましたが、二十歳過ぎの頃に祖母の健康状態の事もあり、また共に暮らすことになりました。

夜勤のアルバイトを終え、朝にバイクで帰宅すると、車椅子に祖母を乗せ、それを母が押して病院へ通っている姿を何度も見ました。まるで昨日のことのように、その光景が頭にこびり付いて離れません。


もうその二人は居ません。誰もがいつか経験する「死」というものも、日常のことだと思います。

先週、見舞いに行った時に最後の声を聴きました。それは「ゆうさく」と、私の甥の名前を呼ぶ声でした。私の名をもう呼んでもらえないということで、少し寂しい面もありますが、声を聴けて喜ばしいことだとも今は思っています。


その甥は、通夜も告別式も号泣し、その姿を見ていると、祖母と甥との間の愛情が溢れていたと感じました。私は遺影を持つつもりでしたが、甥に任せました。

26日以来に今一人になり、だんだんと実感していなかったことも感じるようになりました。96歳と高齢で逝ったので、母の時とはまた違った寂しさが涌いています。

悔いが残るのは、介護施設に入所している頃、家から近いのにも関わらずまた自身の我儘で会いに行くのを拒んでいたことです。施設や病院は私にとっては苦手な場所ですので、言い訳にはなるのですが後悔しています。それと、死に目に会えなかったことと、死を迎える前に自身の歌を聴かすことが叶わなかったこともです。

思い出すことは多々有り、思えば私が音楽を始められたのも祖母がベースギターを買ってくれたおかげです。祖母がいなければ私は今のように仲間たちと歌いあったり騒いだりできていなかったと思います。本当に感謝しています。


通夜後と告別式前は、姉と姪のおかげで楽しく笑って過ごすことができました。それはまるで皆で旅行へ来たのかと錯覚するくらいの楽しさでした。祖母もその様子を楽しく見守ってくれていたと信じたいと思います。


私は、自身でも歌っているように、死者は空にいないと思っています。なんでもない暮らしの中にいつも寄り添ってくれていると考えています。それでも、あの世で祖父や母、幼くして逝った母の姉や、亡くなっていった親戚や友人と楽しく笑ってくれているとも思いたいです。


と、暗くなってしまったので、最後に祖母のことを一つ、

ばあちゃんは、

「プロゴルファー猿」

が好きでした!


ほなね、ばあちゃん!ありがとう!さよならやけど、また会おう!!

西田勝弘