2013年4月28日日曜日

そのひゃくにじゅうろく

ワシは高校を辞めた。もう16年(?)程のことである。

理由は簡単、三年生に上がれなかったから。


あ、このお話はきっと前世やその更に前の前世にもしている。


学校は退屈だった。だいたい通学の電車の定期とバスの定期は自分で支払っていた。バスに乗らないと駅から絶望的にとおく、又坂道だった為にバスに乗らないと学校に行けない。

バス代が無い時は同級生を捕まえてお金をせびった。返したかどうかなんて覚えてない。ジュース代もよくせびった。

それでも行く気にならない時は、比較的安い電車の定期は三ヶ月に一度買えていたので、一駅先のかっちゃんの家によく行った。

あいつは割と真面目に通っていた。かっちゃんの家には鍵がかかっていなくて、自由に出入りできた。そこで俺はテレビを見たり寝たりして夕方まで過ごした。

夕方からは毎週5日ないし6日のホットケーキ工場に通っていた。そっちは割りと真面目に通っていた。時給も高校生なのに千円くれた。年2回は10万円以上のボーナスがあった。仕事はしんどかったけど、年上の奴らとつるんでよく悪いことをした。もう時効(パクられてもいいけど)工場のものを盗んだりした。もちろん工場の人が快く持って帰っていいよと言ってくれたこともあった。そもホットケーキは次に日学校に持って行って「ご自由にお取りください」と貼紙を貼り、人気あったと思う。

バイトにはリキも少しだけ来てた。まだ顔を知ってるだけで全然仲良くない時。それでも、何かの時にかっちゃんの家から自分の家に帰る用事があって、その時リキが単車に乗せてくれた。SRやったと思う。

バイクも好きやった。自動二輪の免許を獲ろうととしてすぐにポリに捕まり、免許は獲れなくなった。無免で車運転して単車盗みに行ったこともある。

あの時はいちばん欲望があった。どれだけお洒落な格好を出来るか、どれだけ格好良い音楽を知っているか。今の今まででいちばんギラギラしていたように思う。


ワシが三年生に上がれなかったのは、決して出席日数が足らないわけでも単位が足らないわけでもなかった。どちらも「ギリギリ」足りていると担任の教師に言われた。じゃあなんでダブるかと問うても結局明確な答えは帰ってこなかった。それは後にワシの担任への「素行不良」というしょうもない結果だったと分かった。

学校にその後の進路の話をしに行く帰り、お母さんと食事へ行った。結局彼女が死ぬまでこの事ははなさへんかったけど、どういう風に思ってたやろう。学校を休むのは全て自分で連絡したから変にズル休みになっていない。暴言とか軽く暴れたり、

でも彼女はそれを知った時や、ワシが学校教師に対して暴言を吐いたり暴れたりすること、まあたまたまたやけどタバコや酒で停学にはならへんかったけど、それを知った時はどう思ったやろうろ。やっぱり悲しかったのか、うちの母親を知る人間なら「もっとやれ」と言ったかも知れない。れは本当に聞いていくべきやった。

学校をダブった日のことは強烈に覚えてる。前日連絡があった時からこれからどうするべきかずっと悩んだ。一睡もできなかった。元々高校へは行きたくなく、音楽をやりたかった俺は、一学期にはほんまに怠惰に過ごした。授業は出ない。テストは白紙で出すか休むか。自ずと「辞められる」方向へ向かっていった。

でもこれは未だに覚えてないことやけど、なぜか急に奮起した時期があった。恋人が出来たからかも知れない。それはもうほんまに覚えてへん。

結局学校を辞めた自分は、高校の卒業資格を獲れる通信制の高校へ通った。週2回、1日多くても3時間しかない学校やった。空き時間はゲーセンかパチンコ。年齢も容姿も様々な奴が通っていて、ほとんど友達ができなかった。逆ナンしてきてきた女の子としょうもないヤンキー2人と一つ下のおどおどした奴やった。

結局こいつらとは卒業後も一切連絡も会うこともなくなり、「田中」っていういちばん覚えやすい奴の名前しか覚えてない。いちばんクソやった奴。しばいたったら良かったけど、その頃俺は少し穏やになっていた。

卒業する前、学校のない日はかっちゃん、の家に入り浸った。おばちゃんも何にも言わん人やったしは、なんなら面倒見てくれたくらいらほんまに世話になった。

ある日、かっちゃんも学校をおもしろくなさそうに過ごしてたから、学校まで連れて行って辞めさせた。今こうやってFacebookなんかで繋がっている同級生、俺のことを覚えてくれてたみんなでも知らんこともあるやろうけど、あいつを辞めさせたのさ俺や。中々そういう奴もおらんやろうけど、俺は簡単にやった。学校の門入ってちょっとある階段の所でずっとタバコ吸って待ってた。「お前今から辞めて来い」って。

はっきり言って覚えてないけど、その時のかっちゃんの顔は後悔もしてなかったしら、むしろ晴々としてたように思う。


高校を卒業して何年かして、一緒に暮らす寺さんとリキと再開した。二人はバンドをやっていた。俺とかっちゃんも音楽をやっていたけたど、リキはそれを一回聴いて海外へ逃げた。でもそれは格好悪いことじゃなくて、ある種修行みたいなもんで、ミュージックジャンキーたちがこぞって音源を探すことと一緒で、あいつはそれを旅」という俺には真似できへん素晴らしいもので補った。寺さんは高校の頃からお洒落で、ウォルトなんて来てたもんやけどそれも落ち着いて、もっと格好よくなった。


寺さんとの再開もよく覚えてる。某地下鉄の駅の階段を上がっていたら、「おー、西田。久しぶり!」と声をかけてくれた。彼もまた自分を覚えていてくれたことに感謝しts。

程なくして4人とタップ、それに豊がバンドに入ってくれた。最高にロックンロールやった。豊なんてポルシェでライブハウスに来てた。タップはいつもリハが終わるとシャワーを浴びに帰っていた。


結脇バンドは開催したけど、この6人と後任ドラマーのふっし、宿担当のNっち、お手伝いを凄く懸命にやってくれたAちゃんとJちゃんとCっちに今でも感謝してる。

バンドがあったかないかは分からんけど、豊、羽田、増田、長岡、村田、藤本、磯辺、晶子ちゃん、おばお、熊ちゃん、真二郎、村上、竹さん、あと抜けてたらすまん!学校はほとんど絡むことのなかつたみんなと、イレギュラーやけどあんくんとなおっちとはっちゃん、みんなが俺を覚えててくれたことがほんまに嬉しかったし、こうして浅かれ深かれ、同級生みんなと繋がってくれていることに感謝するとともに、


同窓会ってやったことあんの?
ぜひ誰か教えて。
実は結局それが聞きたいねん…。

損で俺は今、Facebookで特に活躍を見かける羽田と増田という二人のクラスメイトに誇りを持っています。もう16,7年会ってないけど、想像を絶するくらい頑張ったんやな。中々会えないけど、応援してます。楽しんで頑張ってくださ。

ザ・ソロシップスは今はやってないけど、何年経ってもまたらやるから一回観に来てね。度肝抜いたるわ。40になっても50になってもやるから。

※豊おる時の写真無いんねん、ごめんな!!